ピアキャスト偉人伝 殺し愛 その4

その3から

その4

 美容室の応接室には日用品が目立つようになり
マスターが「ラウンジ」と呼んだその空間は、殺し愛とマスターの生活空間と化していた。
 かつてマスターと殺し愛が夢に描いた理想の空間は、
生活と言う現実に侵食されていった。

 美容室は休日には繁盛しているように見えたが、
それも美容師がマスター一人しかおらず、一人で客に対応していたからであって
客の絶対数は決して多いとは言えず、
予想される店の売り上げから察するに、とても十分売り上げを得ているようには見えなかった。
平日には美容室を開けず、殺し愛と一緒に不動産清掃や軽作業をする事さえあった。
 身を立てるための手段である美容室は何時しか理想を追い求める行為となり、
生活する金を得るために他の事をする必要すら生じ始めたのである。

 美容室を取り巻く状況が徐々に変わり始めたのと同時に、
マスターと殺し愛の関係にも徐々に変化が生じていた。
 マスターは殺し愛を一人前の年上の人間として、自分と対等以上に扱ってきたからこそ、
「うっかりさん」を自称する殺し合いの数々の失敗に対する感情は
完全に解決されないままマスターの心の中に蓄積されていった。
 全てが上手く行っていれば、そんな事は全て些細な出来事だったかもしれない。
しかし美容室の経営が決して上手くいっているとは言えず
精神的に負荷を与える要素が複数ある今、
踏みつけられたジャムパンの側面からジャムが飛び出すように
殺し愛に対する感情が噴出するのは時間の問題だった。
 そしてある夜、その時は訪れた。

 その日の美容室での業務を終え、マスターと殺し愛が応接室で自分達の時間を過ごしていると
電話の呼び出し音が応接室にけたたましく鳴り響いた。
電話に出たマスターの、客からの電話とは違った丁寧さから、
電話の相手が特別な存在である事が読み取れた。
 電話から暫く経ち、外から低く威嚇的な排気音がだんだん近付いて美容室の前で止んだ。
ロバートの愛車、排気量1800ccの二輪車ゴールドウィングの排気音だった。
ロバートは三人のうち最初に椅子に座座り。殺し愛につまみを買いに行くよう支持した。
 殺し愛はいい付けられたマクドナルドで調達したつまみ以外に
コンビニで柿の種等のスナックを持ち帰り、酒盛りが始まった。

 他愛も無い話をひとしきりすると、 
ロバートは殺し愛がいい付けられたもの以外の物を買ってきた事を
殺し愛の成長の表れだと言い、それを褒めた。
 話は殺し愛の肯定的な面だけを捉えたものだけでは終わらなかった。
話題はこれまでロバートが感じていた殺し愛の否定的な面を踏まえた上で、
マスターと出会ってからの成長やこれからの展望へ広がっていった。
 マスターはロバートに酒を注ぎ、テーブルの上に栓の開いた酒瓶が並んだ。
マスターはロバートに続いて殺し愛の事について話し始める前に
酒瓶の栓ではなく、その心の栓を抜いた。

 「言うと悪いですけど、マニアさんを見たら世間の人は引きます」
「世の中の10人居たら8人はマニアさんを見たらえってなる」
最初はまだ「マニアさん」という代名詞や世間一般という客観的な視点からものを言う事で、
殺し愛に気を使った。
 「美容室に変な人がいたら、女子高生は引く」
「変な人が居たらもう、この美容室は変な人が居ると思われてしまう。」
と、次第に殺し愛は初対面の人から見れば変な人に見えるという否定しがたい事実を突きつけた。
 「汗まみれで風呂に入らんまま美容室をウロウロせんでください」
「応接室に自転車があったらお客さんは何だろうと思う」
「いくらパソコンが得意でもこの時点で何か生み出していなければ何も意味が無い」
「○○さん(殺し愛の本名)は人付き合いをしてこなかった」
最終的に批判は殺し愛個人の資質や日ごろの行動についてのものになっていた。
 「ええ、ええ」殺し愛はマスターに感情の無い平坦な相槌を打った。
その様子はリスナーがかつて殺し愛配信で目撃した
鬼軍曹が殺し愛に説教をする様子とよく似ていた。

 マスターの殺し愛に対する批判は、大人同士が交わす意見としては礼節を欠いている用にも思えたが、
客観的に見れば当たり前のものばかりであった。
客商売の中でも美容室は、客に対してサービスを施しその対価を得るという
接客そのものを商品とする業種である。
そのような業務に最も向かないタイプの殺し愛が接客業務に就く事は、
無理と言い切ることは出来ないものの
相当ハードルが高いと言わざるを得なかった。

 ロバートが帰った後、既に日付は変わり普段なら就寝する時間になっていたが、
美容室では殺し愛、マスター、そしてニコキャスとの音声を通じたリスナーの三者による話し合いが
続いていた。
リスナーの中には
マスターの発言に理解を示す者、
殺し愛のふがいなさを諭す者、
マスターの踏み込みすぎた発言に対して反発する者、
この混乱した状況にリスナーと言う安全な立場から
マスターや殺し愛に言葉の礫を投げつける者も居た。
 ニコキャストが書き込みを読み上げ、
美容室の応接室にはあらゆる感情を含んだ言葉が響き渡った。
 殺し愛は故意なのか過失なのか、
何故かマスターに対する攻撃的なレスを選んで再度声を出して読み上げた。
 この事が殺し愛のマスターに対するせめてもの抗議の意思を示す行動だったのか
それとも全くの偶然なのか、今もって謎である。

 殺し愛はリスナーからの「散歩して心を落ち着かせてみては」という進言を取り入れ
PCを持ち夜の街を散歩する事にした。
 鬼軍曹の就職圧力から逃れ辿り着いた美容室も、自分の居場所ではないのだろうか。
殺し愛は美容室を後にし、暗く誰も居ない町を歩き出した。
普段なら寂しく思える町並みの静寂が、今日は殺し愛の心の火照りを優しく冷やしていった。

 ニコキャストが読み上げるレスをBGMに暗闇の中を歩き続け、心の平静を取り戻した頃
人間の根源的な防衛本能を呼び覚ますようなバイクの爆音が向こうから近付いてきた。
その音はロバートのゴールドウィングの排気音とは違う、
完全に他人を威嚇する事を目的とした音だった。
 配信を通して聞こえる殺し愛の足音と画面のゆれの周期は細かくなり、
殺し愛の歩調が明らかに早くなっていた事が画面から読み取れた。
そしてのその足はマスターが待つ美容室へと向いていた。

 美容室に帰った殺し愛は風邪気味のマスターを気遣い
「はよ寝たほうがよかとです」何回も声をかけた。
殺し愛が散歩の途中で買った肉まんをマスターに差し出すと、
肉まんを贈られたマスターは大げさに感謝して見せた。
その光景は二人がお互いにこれからも変わらず付き合いを続けていくを事を
確認しあっているように見えた。 

その5に続く

ピアキャスト偉人伝 殺し愛 その3

その2から

その3

 美容室は人の出入りが激しく、殺し愛は初対面の人と会う度に
自分が何者であるか説明する必要に迫られた。
これまで人付き合いを避けてきた殺し愛にとって自己紹介は簡単な事ではなかった。
「○○(殺し愛の名字)です。パソコンばっかりの人とです。パソコンの人とです。」
結果的にこの挨拶のぎこちなさが、最も端的に殺し愛の個性を相手に説明する事となった。
 美容室開店当初は初対面の人と話す事自体に緊張を見せた殺し愛だったが、
ぎこちない挨拶、電話対応の失敗を暖かく見守るマスターの元で徐々に経験を積んで行った。
 
 それまで自分の世界の中でしかものを考えてこなかった殺し愛だったが
美容室で多くの人と接するうちに、それまで無かった感情が芽生え始めた。
その中でもマスターの親戚の高校生の女の子まりちゃん(仮名)との出会いは
殺し愛の心を大きく揺さぶった。
 殺し愛にとって異性とは同人漫画誌の中の存在であり、
殺し愛は読者と言う絶対に傷付かない立場から自分の想像力によって恋愛関係を成立させていた。
しかし現実の世界で異性を意識した時、
相手が生身の人間である以上、これまでのように絶対に傷付かない立場では居られなくなった。
 生身の異性は同人誌の中の異性のように無条件に微笑みかけてくれるわけではない。
殺し愛がどのような人間か分析し、
恋愛対象であるかそうでないか容赦なくふるいにかけるのである。
 まりちゃんに自分の価値を少しでも高く見せたい、
自分が何も持たない人間であると思われたくない
殺し愛はそう思うようになった。
 殺し愛は自分が人よりも優位に立てる話題を見つけた。
自転車である。
 殺し愛は実家から持ってきたマウンテンバイクに跨り
まりちゃんの前で自分が持つ自転車のテクニックの全てを披露した。
そしてそのあと自転車の整備を始め、
男性の象徴ともいえる機械的な知識を自分は持ち合わせるという事をアピールしはじめた。
 「あーエンドがまがっとる、あーエンドが、エンドがまがっとる。」
殺し愛は応接室で談笑するまりちゃんに聞こえるように専門用語を大声で連呼した。
殺し愛の精一杯の男性アピールだった。
アピールが成功したのか、まりちゃんは殺し愛の存在に気付き殺し愛の元へやってきた。
「○○さんっておかめ納豆の人ですか?」
殺し愛はうつむき気味に「なんでーやねーん」と返した。
すると殺し愛を取り囲んだまりちゃんやマスターとマスターの親戚は一斉に笑った。
 殺し愛が一人の男性として他人から見られるにはまだまだ経験が必要だったが。
マスターとその親戚の人間関係の輪の中には受け入れられたのだ。


 美容室開店前から、殺し愛はロバートから不動産清掃の仕事を与えられ
度々清掃の現場から配信をした。
美容室開店後もそれは続いた。
ロバートが殺し愛にこの仕事を与えたのは、本質的には仕事上の要求からであるが
殺し愛の離職後の空白期間を埋めてやりたいという親切心からでもあった。
 ロバートは殺し愛に寝泊りできる場所を紹介し、職を与え殺し愛を成長させようとした。
後に殺し愛自身が「ロバートは俺を一人前のビジネスマンにしようとしとるけん」
と言っている事からもその事が読み取れる。
 しかしロバートは殺し愛と密接に付き合いを重ねるにつれ、
殺し愛の個性に気付いていったようである。
 ある朝、配信が始まり画面に現れた殺し合いは
「あー、やらかしたー。やらかしたー」と何度も呟いていた。
殺し愛が言うには、早朝にロバートと一緒に農業研修に行く約束だったのだが
寝坊してとうにその時間を過ぎてしまっていると言うのである。
殺し愛は罪滅ぼしをするかのように頼まれていないロバートの物件の草むしりを始めた。
美容室で何もせずにただ怒られるのを待つ事は許されないと考えたのである。
絶対に怒られると思っていた殺し愛だが、
草むしりをしている所に現れたロバートの口調は以外にも穏やかなものであった。
ロバートの姿を見つけると同時にすっくと立ち上がり、自ら事情をまくしたてた殺し合いを
ロバートは宥め賺すように話を聞き、その事については手短な相月を打つだけだった。
 普通ならこの状況でロバートのような対応をする事が一般的な反応だろうか
この時点で既にロバートは殺し愛の個性と言うには個性的過ぎる個性を認識し
普通とは違う接し方をしていたのだと思われる。

 ロバートが殺し愛の保護者的な立場だったのに対し、
マスターの殺し愛に対する扱いは依然として対等以上のものだったが。
次第に殺し愛の個性をつかみ、いたずらを仕掛けるようになった。
その様子は男子中学生同士のじゃれあいの様でもあり
傍から見ていて決して不快感を感じるようなものではなかった。
 文字通り同じ釜の飯を食い、寝食を共にする相手を得た事は
殺し愛にとって人生で始めての経験だったに違いない。
マスターにいたずらをされると殺し愛は嬉しそうに笑った。

 美容室の手伝いがひと段落した後、
殺し愛は家出をした本来の目的である農業法人の設立に向けて動き出した。
ロバートが借りた農地の草を刈り、土地を耕し、作物を育てるための農地を整備した。
麦藁帽を被り、農機具を扱うその姿は何処から見てもベテランの農夫だった。
 農業の実績が全く無く、農機具の準備が十分ではなかったため
リスナーから鬼軍曹に農機具を貸してもらってはどうかという提案が度々あったが
殺し愛はそれに応じなかった。
 家庭を支配している鬼軍曹に自室でどやされ、
ひたすら嵐が過ぎ去るのを身を縮めて待っていた殺し愛の姿はもうそこには無かった。
今の殺し愛は自らの力で金を稼ぎ寝床を得、傍らには仲間が居る。
 殺し愛は青年期の課題である父親の支配からの脱却を成し遂げつつあった。
ただし普通の方法とは違う、家出といういびつな形によってである。


 

 美容室開店から数ヶ月が経ち、平日の店内のカメラには
誰も居ない薄暗い応接室が映し出されていた。
 美容室が立ち行くかどうかの答えが出つつあった。

 開店当初、ビラを作成して配ってはどうかと殺し愛がマスターに提案した際、
マスターは前店舗の固定客が新しい店舗にも来てくれるので、必要無いと答えた。
果たしてその予想は正しかったのか。
それから数ヶ月が経ち、カメラの前でビラを作る殺し愛の姿が、その答えを示していた。

その4へ続く

ピアキャスト偉人伝 殺し愛 その2

その1から
その2

 農業研修に通っている間も、鬼軍曹からの就職圧力は緩む事は無かった。
長年殺し愛を傍で見ていた鬼軍曹から見れば、
農業研修も就職活動を停滞させている言い訳にしか見えなかったのかもしれない。
目標に向かって努力しているつもりであるのに圧力をかけ続けられた殺し合いは再び号泣配信をし、
「自らの身を処する」 
とブログに書き残し消息を絶った。

 殺し愛が再び配信の画面に現れた時その背景に写っていたのは、
寂しさを埋めるかのように物で埋め尽くされた殺し愛の部屋ではなかった。
建材がむき出しの壁、カメラ越しにも安価である事が見て取れるサッシュ
そこには何も無かった。
 それまで不器用ながら堅実に生き、信用を積み重ね大学を出手に入れた職を
葛藤の末失った挙句行き着いた場所であるが
不思議と画面から悲壮感は伝わってこなかった。
 殺し愛はその日の昼ごはんをリスナーに披露した。
「商店で缶詰をゲットしよりました」
もう食べ物は親から与えられるものではない、
自ら能動的に動き「ゲット」するものになったのだ。
 しかしこの後殺し愛は空き巣に遭い、現金やクレジットカードを失う。
殺し愛が一匹狼として野生で生きていく事になった今。
殺し愛が合法的な手段で得物をゲットするのに対し、
違法な手段で得物をゲットする輩が居る事に対するリスクを背負うようになったのだ。
だが何も案ずる事は無い、
今殺し愛の周りには、この世界を生き抜いてきた心強い仲間が二人居るのだ。

 仲間の一人目はその一で記した通り、農業研修で知り合った不動産屋のロバート、 
そして二人目はロバートから紹介された美容室の経営者、「マスター」である。
殺し愛が住み込んで働いている美容室はこのマスターの経営している美容室だ。
 マスターは前店舗の賃借料の値上げを期に新しい店舗に移転する事を決意し
この店舗を選ぶ際にロバートの協力を得、その縁で殺し愛と知り合ったのである。

 初めて配信の画面上にマスターの姿が映し出された時、殺し愛のスレや意見所はどよめいた。
その容貌は一般的なピアキャスト配信者のそれとは大きくかけ離れていたからである。
 オシャレに対して絶対的な確信が無ければ出来ない茶髪の長髪、
肉体的な優秀さを誇示する大きな体、
意志の強さを示すような整えられた眉毛、
活動的であることを示す褐色の肌
全てがピアキャストに興味を示すような嗜好を持つ人間ではない事を現す特徴であった。
 失礼ながらその時私も「殺し愛さんはこの人に殴られるんじゃないか」
そう思った。
しかし数分経つとその危惧は間違いである事が直ぐに分かった。
マスターは金も経験も無い、それでいて作業が決して早いほうではない殺し愛を
自分と対等以上の年上の人間として扱い、
ペンキ塗りで殺し愛がミスを犯しても決して責める事は無く
普通の成人以上に人に対して丁寧に接する人であることが分かった。

 それから一週間ほど殺し愛はペンキ塗り配信を続けた。
過去の自分を塗りつぶすように
新しい自分の領域を広げるように
一週間ペンキを塗り続けた。
 人間的に徳の高いマスターと接するうちに態度の変化が見られるようになった殺し愛は
床にペンキをこぼした際、
「ここに芝生を敷いてはどげんですかね」
とマスターに独自のセンスで意見を言うほど殺し愛は積極的になっていた。

 二十代にして自分の店を持ったマスターだが、
金銭的にそれほど余裕があるわけではない事は、開店前の美容室の様子からも見て取れた。
しかしマスターの会話スキルの高さと、何か新しい事を始めると言う胸を高鳴らせる状況
何よりピアキャスト配信の中でも極端に個性的な殺し愛と、
およそピアキャストに縁が無いリア充を記号化したようなマスターが共同生活をするという奇跡が
配信を輝かせていた。
 この頃リスナーも殺し愛もマスターも、きっと同じ未来を想像していたに違いない。

 開店当日殺し愛は背広に着替えたがひげは生えたままであった。
マスターの指摘でひげを剃ると、殺し愛はマスターに開店祝いの御祝儀を渡した。
御祝儀袋には
「殺し愛」
と書いて渡した。

 常人からは理解できない行動でリスナーを驚かせた殺し合いだが、
御祝儀袋と一緒に差し出したプレゼントに、特にマスターの奥さんは感激したようである。
殺し愛は開店当日の早朝に野原に出向き、
店名にちなんだ植物の四葉のクローバーを摘んできたのである。
 普通とは少し違う、四つの葉があるクローバー。
殺し愛がこれを自らの精神的成長を示す節目に他人に贈る事は何かの因果だろうか。

 開店前に来客第一号のカットが行われた。
客は殺し愛である。
「美容室ではワイシャツを脱がんといかんとですか」
いつもならこういった珍妙な発言をしたら自分を責める殺し愛も、
今日はそれを聞いたマスターの奥さんと一緒に笑った。
 カットと洗髪を終えた殺し愛の容貌は少し実年齢に近付き、
リスナーからは「佐賀のブラッド・ピットぞ」と賞賛の声が上がった。
マスターもリスナーに自分が美容師である事を証明する事が出来、満足に違いなかったが、
今見せた事が当然であるかのように、
決して自慢げに振舞わない事が逆にプロ意識の高さを感じさせた。

 殺し愛の洗髪を終え、マスターの奥さんが「開店します」と言った瞬間、
殺し愛、マスター、リスナーは自分達がかつて想像した明るい未来に今踏み出した事を感じていた。
そして、マスターと殺し愛の努力が報われた事を、店先の客の列が証明していた。

その3へ続く

ピアキャスト偉人伝 殺し愛 その1

殺し愛

 昭和53年、日航ジャンボ機が墜落する一週間前
殺し愛は福岡にて生を受けた。
寡黙な青年期を過ごし、30歳になるまで酒を飲んだ事は無かったという。

 人付き合いがあまり上手ではなかったが、
大学では常に最前列の席に着き、とにかく実直に振舞う事で人生の課題をクリアし行き、
なんとか大学を卒業して人並みの幸せを手に入れる切符を手に入れた。

 しかし実社会に出た後、殺し愛は大きな壁にぶつかる事になる。
今まで責任の無い子供だったからこそ許されていた、
とにかく実直に振舞う事で人付き合いの苦手をカバーすると言う手法が
通用しなくなったのである。

 現実に絶望した殺し合いは、ネットの世界にはまり込む。
特にSOLDATという2Dネット対戦シューティングゲームに熱中した。
「殺し愛」というハンドルネームもそのゲームについての2chのスレッドのタイトルから得たものである。
殺し愛はこのゲームで「100人の友達」を得、彼の中で非現実の世界は益々膨張し続けた。
しかしこの時期何らかの理由で殺し愛はこの「100人の友達」を失う。
この理由は未だ殺し愛の口からは語られていない。

 そして「100人の友達」を失った殺し愛は、その心の渇きを潤すものと出会うことになる。
ピアキャストである。
配信者は自分の姿や声を晒し、視聴者は絶対安全な立場から賞賛や、時には中傷を行う。
SOLDATでネット越しに架空の命を奪い合う以上の生々しさがそこにはあった。

 殺し愛はピアキャストで自転車にカメラを取り付けその様子を配信する事を始めた。
現実世界で他人とのコミュニケーションに悩んでいた殺し合いにとって、
交通ルールと言う他人との空気の読み会いから開放され、
かつ外の世界を移動できる自転車は、移動手段としては最良の選択だったと思われ、
それを配信の題材として選んだのは必然と言えよう。
 そして2007年7月、殺し愛は自転車による日本縦断配信「Tour de PeerCast2007」を実行した。
道中では様々なトラブルに見舞われ、そのたびに出費が嵩んでいった。
日を追うにつれ強くなっていく日差しが困難に立ち向かう殺し愛の姿を強く照らし出し、
それまで殺し愛の配信を見たことが無かった者も含めて多くのリスナーを獲得した。
殺し愛は多くのリスナーからの食料等の実質的な援助に支えられながら日本縦断を成し遂げ、
Tour de PeerCast2007は大成功のうちに幕を閉じた。
後に殺し愛が見せるピアキャストの世界に対す過剰なるこだわりは、
この至高体験に起因するものと思われる。

 Tour de PeerCast2007を終えた後も、殺し愛は定期的に自転車配信を行っていたが、
その日、リスナーは自転車から見える風景ではなく殺し愛が部屋で号泣する様子を目にした。
殺し愛は仕事を辞めたのである。
号泣する様子から仕事をやめた原因は何か大きな挫折によるものである事は想像に難くない。
 殺し愛は会社を辞め、今後はゲームを作成し、任天堂に就職するという展望を語った。
いかに真面目に人生を過ごし、大学を出たからと言って、
それまで配送の業務を行ってきた人間が、
世界屈指の優良企業である任天堂に中途入社出来るものなのか、
常識的な判断能力があれば誰もが辿り着く結論は同じであろう。
しかしその時の殺し愛のあまりに哀れな姿に
大半のリスナーは同情から、その目標に向けて頑張るように声をかけた。

 頂上の見えない山を登り続けた殺し合いだが、
その様子を見て現実に引き戻そうとする人物が居た。
彼の父、「鬼軍曹」である。
鬼軍曹は、父親である責任感からすれば当然か、はたまた鬼軍曹個人の資質なのか
有名企業の採用から漏れ続ける息子にかなり強い調子で職に付く様圧力をかけていた。
筆者自身は目撃した事が無いのだが、
配信中に鬼軍曹から殺し愛へ実質的な力、一般的な言い方で言うと手が出た事すらあったという。

 鬼軍曹の尋常でない圧力と、
就職できないという現実の板ばさみによって追い詰められた殺し愛は
就職という本当に目指すべき目標を見失い、
とりあえず目の前の鬼軍曹の圧力から逃れる方法を求めるようになっていた。

 自分が人付き合いが苦手であるという自覚は既に持っていた殺し合いは、
一般企業の採用から漏れ続けるという現実とあわせて鑑みて、
自分に勤まる仕事は農業しかないという結論に至っていた。
 農業と言う仕事は人付き合いが必要無いわけでは決して無い。
既存の企業の採用から漏れ続ける殺し合いにとって。
自らが立ち上げた事業で生計を立てる事が状況を打開する方法であるという結論に至り、
今現在の環境でそれが出来る業種は何かと考査したところ、
それが農業だったのである。

 殺し愛は農業に関する知識を得るために地元の農業大学の農業研修に参加し、
そこで後に運命を大きく変える人物と出会う。
農業のノウハウを持たないものの、農業に関心を持ち農業法人を立ち上げたいと考える人物
ロバートである。

その二へ続く
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