High-Da!

 ハイダ、エイチアイジーエイチハイフンディーエー
ビックリマークだけが全角で、High-Da!である。
一般的にはギターウルフマンの職場の先輩である事から「先輩」と呼ばれていた。

 先輩が始めて配信の画面に現れた時、私は動揺した。
 私は先輩が配信を始めると聞いて、ピアキャストウォッチスレッドで
「先輩はピアキャストの世界の人間ではないのだから、丁寧に迎え入れよう」
と呼びかけていた。
しかし、配信の画面に映し出された先輩の容姿を見て、
それをいじらずには居れない衝動に襲われたのである。
私はスレッドに「赤影さんやが」と書き込んだ事を記憶している。
それほどに先輩のファーストインパクトは強烈なものだった。

 そしてその衝撃は初回配信以降も続いた。
カラオケ、夜食、雑談、そのどれをとっても
今までピアキャストで見た事のある配信の中でもトップレベルの奇行配信だった。
 見ている者がどのように受け取るか全く考えずに歌い上げるカラオケ、
そしてその自分の歌声をBGMに雑談をし、
腹が減るとまるで空気を吸い込むように食べ物を胃に収めるのである。

 先輩がこれだけ質の高い配信を安定して続けられた裏には、
彼が青年期から現在の39歳に至るまで続けてきたオタク活動の蓄積がある。
先輩は定時制高校入学時から現在までその収入の殆どをオタク活動に費やした。
そしてその結果、どれだけ吐き出しても無くならない配信力を身に付けたのである。

 先輩は自身の未来について質問された時多くを語らない。
予想される将来は不透明である事を自覚しつつも、
特にその不安を取り除くための具体的な考えは無い。
何故なら先輩にはこれまで20年間、好きな物だけを選り抜いた居心地の良い思いでの世界があり、
その世界に思いを馳せれば将来の不安など目の前から消えてしまうからである。
つまり先輩にとって現在とは自分にとって心地の良い過去を生み出すための時間なのである。

 であるから先輩の配信は、先輩自身が39歳まで独身を続け、
収入の殆どを自らの欲望の趣くままに趣味につぎ込み先輩の内部に蓄積された情報を、
再度胃袋から取り出し反芻し
それを自分以外のリスナーと共に再度体験する事によって、過去の思い出にまた新しい鮮度を与え
永遠に色褪せない思い出を生み出す行為だったのである。

 結果的に先輩の配信は、
それまで先輩が自分の好きなものを選ぶことによってかけられたフィルターを通った情報が発信され、
歌、踊り、飯という娯楽のツボを抑えた配信となり、
画面から受ける奇抜な印象と安定した娯楽性という最高のバランスを手に入れ、人気配信者となったのだ。

 先輩がピアキャストで行った活動として思い出の再生産以外にもう一つ大きなものがある。
それはオフ会である。
先輩がオフ会を行った時期は永井先生、佐々木の隆盛によりピアキャストシーンと言うものが
ピアキャスト民の心の中にそれまでより強固に形作られつつあった時期である。
しかし既にこの時期永井先生、佐々木は半引退状態であり、
ピアキャストの世界に集まった思念はその拠り所を求め彷徨っていた。
先輩自身にそういった自覚は全く無いと思われるが、
先輩のオフ会はそう言った思念の拠り所となり、
先輩のオフ会にはリスナーだけでなく配信者も多数参加し
ピアキャストシーンの存在を視覚化する機能を果たしていた。
これは先輩の誰も嫉妬しないであろう性質だからこそ成し得た功績であろう。

 また、先輩の配信で印象的な事柄として、先輩の思考と職業の関係を見て取れるという点がある。
先輩は人との対立を極力避けようとする性質が見受けられる。
たとえ自分が中傷されても真っ向から抗議しようとしない。
政治、経済に係る話題に関しても一定の考えというものが全く無い。
これは先輩の職業であるコールセンターのサポート業務従事する事によって形作られた個性だと思われる。
 対面なら些細な誤解に終わる問題でも、
電話と言う顔の見えない状態での言葉のやり取りは非常に慎重に行わなければ、
大きく相手の感情を動かす事がある。
このような問題に対し先輩相手と対立しないという手段で対応し
次第に日常生活での個性として先輩の内部に定着していったものと思われる。
この傾向は先輩の同僚のギターウルフマンにも見受けられ、
この仮説の有効性を高めるものとなっている。

 本ブログ「ピアキャスト配信者批評」は通常ある一点に絞って
その配信者に対してまだどのサイトでも指摘されていない新しい切り口での批評を提示する事を心がけている。
しかし先輩に関する批評は一点に絞りきる事が出来ず、この文節の時点で既に三つの点について記述している。
それほどまでに先輩はピアキャストの世界で多くの事を成し遂げ、
個人配信の未踏地域を踏破していった。
ピアキャストに与えた功績という点では、先輩は永井先生、佐々木に匹敵する偉大な配信者である。

 今現在先輩は2008年11月の第114回配信を最後に引退状態にある。
ウォッチスレッドでは先輩の復活を渇望する書き込みが連日書き込まれ、
先輩の配信の録画が再配信され、200人近いリスナー数を獲得している。
 もし、あなたがこの先輩の復活を渇望する人々の中の一人ならば、
第二、第三の先輩は配信の画面の中に居るとは限らない。
あなたがやっている事は先輩がやっていた思い出の再生産行為と何も変わらない。
今PCの画面を見ているあなた自身が、第二のHigh-DA!である事にお気付きだろうか。

採点
High-DA!: 9.0

ピアキャスト偉人伝 殺し愛 エピローグ

 殺し愛が配信の世界から去り年号は一つ増え
現実世界は花見の季節を迎えていた
四月初旬、社会は年度の節目を向かえ
この一年ピアキャストの世界にも様々な人が訪れまた去っていった。

 今日もPCYPの配信リストには様々な配信が表示されている。
現実社会での心の渇きの大きさ表すかのように長大に表示されたリストの中に
もうどれだけ渇望しても二度と見る事は出来ないと思っていたあの三文字を私は見つけた。

殺し愛

 配信画面には暗闇の中にライトアップされた桜が映し出され、
配信者は花見の喧騒に包まれながら、
一人そこに立ちPCに語りかけた。
「リアルプレイヤーオンライン、時刻は19時40分になりましたちゅうこうとで」

「人生のログを取る」
かつてそう言って配信を続けた男は、
これからも社会の喧騒の中を一人歩き続ける。
暗闇の中の桜が散った後も
リスナーの眼差しが殺し愛の姿を照らし出し続けるだろう。


ピアキャスト偉人伝殺し愛
終わり

ピアキャスト偉人伝 殺し愛 その8

その7から

 殺し愛が美容室に居候を始めて三ヶ月が過ぎた11月下旬。
 この日配信画面には夕食を終えパソコンで作業をする殺し愛の姿があった。
殺し愛が開墾し栽培したベビーリーフをホームページ上で販売するための準備である。
 ベビーリーフを販売し対価を得るという事は、商いとして動く金は微々たる物だが
農業法人設立への大きな第一歩だった。
 この数ヶ月様々な困難に逢いながらも
目標に向けて積み重ねた努力の成果を収穫する時が来たのだ。
 普段決して作業の早い方ではない殺し愛も今日ばかりは作業に没頭して
「今夜中に徹夜してでも仕上げんといかんね」と積極的な姿勢を見せた。
 ラウンジには殺し愛のキータッチの音が短い間隔で鳴り響き
殺し愛の中で濃密な時間が流れている事を感じさせていた。

 殺し愛が作業を始めて間も無く、
それまでラウンジに小気味良く響いていたキータッチの音は
電話のけたたましい呼び出し音によって遮られた。
 マスターは電話に出ると、丁寧に応対し酒と食べ物の準備を始めた。
これはリスナーが今まで何度か目にした光景だった。
そして電話から数分が経った頃、
波乱を告げるあの獣の唸り声のようなバイクの排気音が遠くから徐々に近くなり、
美容室の前で止んだ。

 ロバートがラウンジに現れ宴会が始まった後も、
殺し愛は「今夜中に済ませんといけん作業がありますけん」と言い
酒席には加わらなかったが、
ロバートからの再三の誘いを断り切れず、
カメラに背を向ける格好で酒席に加わった。
 その日の宴会の話題は高級ワインやブランド物といった
贅沢品に関するロバートの蘊蓄話が中心だった。
半ば義務的に相槌を打つ殺し愛に対し
マスターはその職業柄鍛えられた会話力からか
それとも自分の興味がある話題だったからなのか
ロバートの蘊蓄話にいつもより大きなリアクションをとった。
 ロバートの蘊蓄話が一段落し話題が尽きラウンジに微妙な間が生まれ
ラウンジは静寂に包まれた。
そしてロバートは俯いた殺し愛を見て次の話題をこう切り出した。
「この前の話なんだが、もしお前がよかったらと思って今日資料を持ってきた。」

 「判断するのはお前だ。」
ロバートはそう前置きした後話を続けた。
「アスペルガー症候群と認定されたら年間70万円の障害年金が支給される。
○○(殺し愛の本名)、おまえ年金払っているか?」
 「ええ、ええ」と受容とも拒否ともつかない返事をする殺し愛に
マスターは「もらえるものはもらっとった方がいいですよ」
(積極的に障害者認定を薦めるという意図ではなく、もし本当に障害を持っているのなら然るべき補助を受けるべきという意図と思われる)
と声をかけ、。
「配信切った方がいいんじゃないですか」と提案した。
 個々人の言動から、おそらくこの話は殺し愛、ロバート、マスターの間では
事前にある程度話が進んでいたに違いない。
リスナーの目の及ばない所で、ロバート、殺し愛、マスターはそれぞれの視点からこの事案を検討し、
その上で今日のやり取りがあるのだろう。
マスターもロバートも善意で動いていた事は間違い無い。
しかし今日初めてこの事案に関する話し合いを目撃したりリスナーにとって
その内容はあまりにも衝撃的なものだった。


 殺し愛はマスターの提案を受け入れ配信のマイクの音声を無効にしたが、
カメラの映像は無効にせず配信を続けた。
 音声を失った配信画面は
PCを操作し終えカメラに背を向け再び酒席へ向かう殺し愛の後ろ姿を映し出した。
ロバートとマスターに何か話しかけられる度に相槌を打ち、
かすかに揺れる小柄な殺し愛の背中は
さながら荒波に揺られ水平線の向こうに消えて行く笹舟を思わせ、
今日始めてこの事案を知ったリスナーの心を大きく揺さぶった。
この夜リスナーは静寂の中80分間殺し愛の背中を見守り続けた。

 話が全て終わり殺し愛とマスターが帰路に着くロバートを見送った後、
殺し愛はマイクをオンにするために再びPCのカメラの前に現れ、
マイクがオフになったままマイクに向かって喋り始めた。
リスナーは聞こえるはずの無い音に耳を澄ませ
殺し愛が何を言っているのか必死に聞き取ろうとしたが、
やはり何も聞き取れず。
殺し愛とリスナーを分かつPCの画面が生者と死者を分かつ深く冷たい川のように立ちはだかった。

 そして配信の音声は画面外から伸びた手が殺し愛の肩をつかむのと同時に回復した。
「頑張ろう!○○さん、絶対頑張ろう!!」
音声の回復と共に聞こえてきたのはマスターの声だった。
マスターは殺し愛の肩を叩き、繰り返し「頑張ろう」と殺し愛に声をかけ
その度に殺し愛は「ええ、ええ」と相槌を打った。 
そしてマスターの「リスナーさんも待ってるよ、掲示板(音声読み上げソフトで)読んであげて」との勧めでメインPCでの配信が開始され。
ここからノートPCとメインPCの二元中継が始まった。

 掲示板には今夜の一連のやり取りに対する様々な意見が寄せられたていたが、
殺し愛は黙々とPCの作業を続け
マスターに「今夜は徹夜してでも仕上げよりますけん」と告げた。
マスターは「リスナーのみんな岡部さんに付き合ってあげてね」と言い
画面奥の扉の向こうに消えた。
そして徹夜宣言をした5分後に殺し愛は眠りにつき、
長い夜は終わりを告げた。

 夜が明け、ノートPCの配信が開始されると、
配信画面には車の左座席に座っている殺し愛の姿が映し出されていた。
殺し愛が車から降りると殺し愛とは別の車のドアを閉める音が聞こえ、殺し愛に同伴者が居る事が分かった。
殺し愛はロバート共にパチンコに出かけたのである。

 一方、美容室のメインPCの配信画面には異変が起きていた。
張りがあると言う表現を超えて主張の強い年配の男性の声、
それに対してマスターが対応している。
 主張の強い声の主は殺し愛の父「鬼軍曹」のものであった。
殺し愛が家を飛び出す以前から配信の事や掲示板の存在を知っていた鬼軍曹は、
殺し愛の掲示板を定期的に閲覧しており、
鬼軍曹が掲示板に「ahoka」と書き込んだ事実を
殺し愛にブログで指摘される事もあった。
鬼軍曹は掲示板のリスナーの書き込みから昨夜の出来事を知り
美容室に殺し愛を連れ戻しにきたのである。
 マスターは鬼軍曹に着席を薦める事もお茶を出す事も無く、
双方が立ったまま話し合いが行われ、
この様子が話し合いの緊張感を表していた。

 その頃殺し愛はパチンコを終えロバートと別れ美容室への帰路に着いていた。
掲示板の書き込みで鬼軍曹が美容室に来ている事を知った殺し愛は、
一旦美容室へ帰るのをやめ、美容室からホームセンターへと目的地を変えた。
 この時、二つの配信を同時に視聴していたリスナーのPC画面上では、
ノートPC配信のウィンドウに運転をする殺し愛の横顔が映し出され
メインPC配信のウィンドウには向き合い折衝するマスターと鬼軍曹が映し出されていた。
リスナーは一つの出来事に対してそれぞれの立場の人間がどう動いているのかを
リアルタイムで目撃するという未だかつて経験した事の無い視聴体験に遭遇し、
殺し愛の掲示板、意見所は熱気と興奮を帯びた書き込みで埋め尽くされた。
 ホームセンターで買い物を終えた殺し愛は美容室に帰ることを躊躇したが
美容室のスピーカーカーからGeenDayのWalking Aloneが流れ始めると
それに合わせるかのように鬼軍曹と接触する決心を着け、進路を美容室にとった。

 殺し愛が帰路に就いてから数分が経ち、美容室の配信から車の排気音が聞こえた。
マスターが「あ、○○さん帰って来たかな?」と言うと、
鬼軍曹はガレージに向かい美容室の配信のウィンドウから消えた。
そして、鬼軍曹の姿が美容室の配信のウィンドウから消えた十数秒後
殺し愛の配信の車内カメラに映し出された運転席のサイドウィンドウに
初老の男性の顔が映し出された。
「お前どうなっとるんや」
サイドウィンドウ越しに殺し愛にそう言った初老の男性は鬼軍曹だった。
それまで同じ事案、人間関係、時間を共有して別の空間を映し出していた二つの配信が、
運命の糸によって一つの空間に手繰り寄せられた瞬間である。

 殺し愛、マスター、鬼軍曹の三人は美容室内に戻り、
三者による話し合いが行われた。
鬼軍曹の決意は固く、マスターは必ず殺し愛が帰ってくる事を前提に荷物の持ち帰りを拒否し、
殺し愛が今夜だけ実家に帰る事を了承した。

 殺し愛が鬼軍曹の運転で帰路に就く車中、カメラは助手席に座る殺し愛の姿を正面から映し出した。
「お前を守ってやれるのは俺しかおらんのぞ」
鬼軍曹にそう声をかけられた殺し愛は、ついに訪れた居候生活の破綻を噛み締め、
助手席のサイドウィンドウから空を仰ぎ見た。
その表情は失意やあきらめと言った感情が読み取れたが、僅かながら安堵を含んでいるようにも見えた。
 何かに観念するかのようにどっしりと深くシートに座り込み、
傷だらけの顔で空を仰ぎ見る、その殺し愛の姿を映し出した画面で配信は終了した。
そしてこれが三ヶ月続いた美容室からの配信の最後となった。


 その後、鬼軍曹と殺し愛は殺し愛が開墾した農園の視察を行った。
農園に着いた鬼軍曹は農園に着いた瞬間に畑に唾を吐き、立ち小便をする等
僅かな配信時間の中でそのキャラクターを存分に発揮した。

そして殺し愛はあの寂しさを埋めるかのように物で埋め尽くされた自室に戻って行った。
もうどうあがいても子供で居られなくなる二十代の終わりに
芸術家、表現者が名作を多く残すように、
殺し愛はこの三ヶ月、30歳の節目を跨ぎながら
ピアキャストの世界に自らの命がけの冒険の日々を綴り続けた。
その冒険が今終わりを迎えた。

最後の配信から二日後、殺し愛は掲示板を閉鎖し
最後の謎かけをブログに残し配信の世界から去った。

 人の行く裏に道あり花の山

自分の見つけた裏道の花の山もリアルタイム配信で有名になり、
周囲の土がすっかり踏み固められて桜は樹勢を落とすのでしょうか
別の桜を探せばいいというが見つける桜、
見つける桜を紹介して回る自分は桜を枯らす人なのでしょうか。

配信は諸刃の剣、諸刃の剣を常用する自分は常に襟を正す事を求められるため
人情のフィールドでは事故を起こすことが判っていながら、
配信をすることを許してくれたロバートとマスター

マスターもロバートも生きるために頑張っており、悪い事はしておらず
騙されてもいないが、配信は生きる人をそのまま映し出す故に、引き離される

多くの人は弱く、24hの配信には耐えられない
24h襟を正せるならば、一生涯襟を正したいんだけど
一旦多くしがらみに取り込まれたならばこれが難しい

自転車と一人で配信していた頃には問題化しなかったものが表面化したけど
RealPlayerOnlineの無謬性はリスナーの心に何を残したのでしょうか。
リアルをネットに移植してみた RealPlayerOnline

Peercast自転車部 部長 殺し愛



エピローグへ続く

ピアキャスト偉人伝 殺し愛 その7

その6から

 精神的に追い詰められ、更に金銭を失った殺し愛にこれ以上失うものは何も無いはずだった。
しかし殺し愛は最後に残された肉体すら失う危機に遭遇した。

 その日リスナーがいつも通り殺し合いの配信を開くと、
そこには顔面全体を絆創膏で覆い、髪の毛がボサボサに乱れた男の姿が合った。
感情の無い目つき、下がった口角といった特徴から、その男が殺し愛である事は直ぐに分かったが、
何故殺し愛がこのような痛ましい姿になったのか、
視聴者は混乱した。

 「記憶が無いっちゃね・・・」
説明を求められた殺し愛は不安そうにこうつぶやいた後、認識している範囲で事態の説明をした。
 昨晩マスター、ロバートと酒を飲んだ事までは覚えているが、
意識を取り戻した時既に病院におり、
自分が何故このような酷い状況になったのかは全く覚えておらず、
自転車で帰宅中に何らかの事故を起こしたらしいと言う事しか分からないと言う。
 後日警察に赴き、事情を説明するという事になっているが、
自分が被害者なのか、それとも加害者なのか、それすら分からず、
更に道路交通法が改正され自転車も飲酒運転禁止の対象になっているという事実が、
殺し愛の不安を増大させていた。
 この日殺し愛自分の配信画面に映し出された自分の顔見てはひたすら
「ひどいひどい、ひどいっちゃね・・・」と呟き朝になり警察の迎えが来るまでの時間を過ごした。

 殺し愛は病院で意識を取り戻して検査を終えた後、医者から検査の結果の説明を受ける様子をPCに録画しており、
その動画を配信上で再生した。
映し出された病院の一室では、マスターが真剣に殺し愛の検査の結果を医師から聴いていた。
それにに対し本来一番検査結果を真剣に聞かなければならない殺し愛は
自分にカメラを向け
「いやーひどいひどい、ひどいねー」と繰り返し呟いていた。
おそらく殺し愛は自分の失敗により沢山の人間が動き、
その失敗を見られる事に気恥ずかしさを感じていたのだと思われる。

 朝になり警察に出向いた殺し愛は事故の処理を行い、数時間で美容室に帰って来た。
詳細は不明だが、殺し愛の身に起こった事に事件性は無く、
賠償の責任が発生するような相手も存在せず、
自転車での飲酒運転の件についても不問だったという。
更に奇跡的に殺し愛の財産のほぼ全てである自転車は無傷で殺し愛の元に戻ってきた。
 つまり、全ては事故の前の状態に戻ったのだ。
ただし殺し愛の顔に刻まれた痛ましい傷を除いては。

 殺し愛の顔に刻まれた傷は擦り傷であり、おそらくは数週間も経てば完治するものと思われた。
殺し愛も医師からそういった説明を受けているに違い無く、
顔面全体に絆創膏を張ったままファーストフード店に出向き、
その様子を配信する等、顔面全体が絆創膏という絶対的な個性を手に入れた事を楽しむ様子すらあった。
その配信を見たリスナーは改めて殺し愛のある種特殊な行動力に圧倒された。

 何故殺し愛に肉体を失う危機が訪れたのか、
誰かの悪意によって引き起こされたのではない。
30歳までろくに人付き合いをせず、酒も飲んだ事が無かった人間が、
年下の仕事上の上司に当たる人間と24時間生活を共にするという状況を数ヶ月続ける事によって生じた歪が蓄積していったのだ。
殺し愛のこれまでの人生で生じた歪を周りの人間に吸収してもらうには、殺し愛は年をとり過ぎている。

 リスナー、マスター、殺し愛が心に描く未来は
美容室開店の朝描いた未来とは全く異なっていた。
あの朝、努力の成果を示した店先の行列も今は無い。
そのうち人手が足りなくなるだろうと用意していたスタッフ募集の看板も掲げられる事は無い。
マスターはラウンジで寒さに震え、殺し愛に早く祖母の家からストーブを持ってくるように再三催促していた。 
 肉体、精神、経済、全ての面で状況は悪化し、
美容室開店の朝とは別の方向性の未来をリスナー、マスター、殺し愛は再び共有していた。

 人生は浮き沈みのあるものである、今の状況も努力すればきっとよくなる。
殺し愛の傷も時間が経てば傷跡はかさぶたになり剥がれ落ち、
何事も無かったかのように元通りの顔になる。
同じようにこの状況もそのうち良い方向に変わっていく。
希望的な観測を持つリスナーはそう考えただろう。
しかし、リスナーが再び傷跡が消えた殺し愛の顔をを見る機会はついに訪れなかった。
何重もの不条理を抱えたまま維持されてきたこの状況が、
ついに破綻する時が来たのである。


ピアキャスト偉人伝殺し愛編最終回へ続く

ピアキャスト偉人伝 殺し愛 その6

その5から

 殺し愛が夢を見る猶予は、瞬く間にその半分を失った。
殺し愛は祖母から金を借りたその足で現金を持ったままロバート、マスターと共に酒席に赴き
そして泥酔。
酒を飲み始めてからの記憶は全く無く、
酔いが醒めた時、祖母から借りた金は半分になっていたのである。


 殺し愛が配信を始め金を失ったと報告を受けたリスナーは、
再度心当たりのある場所を徹底的に探すと共に警察に届けるように薦めた。
しかし殺し愛は
「無くなった金の事をいつまでも探しても仕方ないけん、
今やるべきことを優先せんといかん。」
と言い美容室のチラシ作りを続けた。
 
 殺し愛は肩を落とし上半身をゆすりながら、
チラシの間に悲しみを織り込み、悲しみを体の外に出そうとし続けたが
折られたチラシの量が増えるごとに、自分が失ったものの大きさをまた自覚し、
心が癒される事は無かった。
「オラに現金を分けてくれ。現金玉」
普段なら何のことは無いソフトークが読み上げるこのただのネタレスも、
今の殺し愛にとっては特別なものだった。
「798、ありがとう。
少し元気が出てきた。」
そして殺し愛自身のネタレスに対する感謝の言葉が、更に殺し愛の感情を高ぶらせた。
殺し愛は嗚咽をかみ殺すウーという声を応接室に響き渡らせると
「ありがたい・・・
涙が出るほどありがたい。」
と言い泣き伏した。
 一旦感情を吐き出した殺し愛は
「やっぱり人間泣くと元気が出るっちゃね。」
と言い一時的に精神に安定を取り戻した。

 平静を取り戻し殺し愛は自分が空腹感を抱いている事に気付き、
ご飯を食べる事にした。
殺し愛は飯をどんぶりに盛りながら、再び状況と自分が金を探さない理由を話し始めた。
「あのお金は農業と美容室にいろんな面白いものを入れるようにしとったったい。
そしたら、美容室が盛り立てられるやろうとね。
だから自分はお金を探すよりもチラシの作成とかそっちの方ば優先するったい。
やるべき事はお金を探す事じゃなく、こうやってチラシを作ったりする事を優先するべきやし。」
 自らの言葉で客観的な状況を再認識した殺し合いは、再び感情が高まり
顔を俯かせ、「チキショウ、チキショウ・・・」と呟いた。
そして「それでも・・計画が・・・」
と言うと目からは涙、鼻からは鼻汁を出し咽び泣いた。
 殺し合いは自分の涙がふりかかった飯を頬張りながら、
「目の前の無くなった金の事を考えても仕方が無い。
そんなセンスの無いことではいかんけんね。
未来のために今出来る事をやる。」
と何度も繰り返した。
 それはある種異常な論理展開だったが、
殺し愛が精神の平静を保つにはこの理屈を自分に言い聞かせるほか無いという事を
この感情の変遷を通して確認したリスナーは、それ以上かける言葉が無かった。

  殺し愛は30歳になるまで酒を飲んだ事が無かった。
それは殺し愛が人付き合いを避け、酒を飲む機会を避けてきたからである。
しかし、美容室に居候し、人付き合いの中で自分の立場を確保するようになった今、
酒を飲む機会は度々訪れるようになった。
 殺し愛自身は自身の酒の強さについて「自分は物凄く飲めるっちゃね」と言っていた。
しかし酒にまつわるトラブルは、客の車で事故を起こした件に続き
今回が二回目である。
 この状況から見て、殺し愛は決して酒に強いとは言えないと考えられる。
しかし殺し愛はその事を今回の事件でも自覚できなかった。
周りの者も殺し愛にその事を指摘しなかった。
 そしてこの不幸な状況が、再び殺し愛をトラブルに導くのである。

その7へ続く
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